2021/02/24

見えると思えるものが見える絵には何が見えるか



 ゼミで知り合った小林さんから、チョー面白いと思うから是非見てみてと、個展の案内を手渡された。彼女の従妹が作った絵を展示するという。

「作った絵?」

絵は描くものだろう。それは単なる言い間違えなのか、それともあえてその言葉を選んだのか、聞いてみたけど顔は笑いながら、説明するのは難しいと言われた。
手渡された案内葉書に目を落とすと、全面がピアノのように真っ黒に印刷されている。印刷には強い光沢が有り、やや反ったその表面を見ると、細長く変形した自分の顔が写って見える。

裏返すと、裏面は白い普通の葉書だった。下半分に場所と開催期間が記載されている。日付を見ると、展示は2月17日からとある。明日からだ。

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電車を降り、駅を出て商店街の通路を通り抜け、踏切を渡り、国道を跨ぐ歩道橋を降りたすぐの所にそのギャラリーは有った。想像していたより小さい。
実は僕はギャラリーと言われる所に来たのは初めてで、頭の中では美術館のような建物を想像していたのだけど、見た所その建物は昭和の昔に出来たらしい木造2階建ての、店舗が左右二つで繋がっているものだった。二階には窓が有り、住居になっているようだ。

左隣の店舗には、窓に物件の間取りを隙間なく貼った昔ながらの不動産屋が入っている。これを見ると多分、右側のギャラリーも元は何か別の店だったのだろう。

透明なガラス製のドア越しに中を覗いて見ると、白い壁に、黒い大きな絵が何枚かかかっているのが見えた。時刻は昼の12時を過ぎていて確かにオープンの時間のはずなのに、中には誰もいなそうだった。

ここは呼び鈴を押して入るのだろうか? でも、見回してもそんなものは見つからない。勝手に入っても良いのだろうか?  僕はもう一度、ジャケットのポケットに入れておいた案内を取り出し、黒い表面が表に出てきたのでひっくり返して開催の日付と時刻を確かめた。確かに今日の昼からだった。

アルミの棒で出来た縦長の取っ手をそっと押し、ドアを開いてみた。中は暖房が効いていた。絵を照らす天井のスポットライトが点灯している。足を入れて中に入ると、ドアはバネの力でゆっくり自動的に閉まった。ドアが閉まると表通りの車の音は小さくなり、代わりにエアコンの送風音が聞こえる。

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縦に畳一枚分は有りそうな大きな絵が、左の壁に2枚、右は、受付のテーブルの置いてある奥の壁に1枚、合計3枚飾られていた。絵の横にはA4サイズ位の説明書きが添えられていた。
絵には額縁は無く、厚いパネルになっている。驚いたことに、3枚の絵はどれも全面真っ黒だった。

なるほど、案内の葉書が黒かったのはこういう意味だったのか。
近づいてよく見てみると、それはただ一色の黒ではなく、微妙な濃淡を付けて、米粒サイズの複雑な形の模様がびっしり印刷されている。それらは確か平らな面に印刷されているのだけど、見ようによっては細かな凹凸が見えてくるような気もしてくる。

ふと絵の横を見ると、説明書きだと思った物には字は書かれていなかった。その代わり、モノクロの細かい線で、写実的なイラストが描かれていた。

左の一枚目の絵の横にあるイラストは、草むらの中にうずくまり、ちらりとこちらを見ているウサギの絵だった。それは漫画のようなものではなく、写真の印刷技術が発達する前の昔に刊行された百科事典に出ているような絵だ。

何故ここにウサギの絵が飾られているのだろう? それとも、ギャラリーに飾られる絵というのはこちらの方で、黒いのは絵では無いのだろうか? だとしたらこの黒いのは、何だろう?

改めて隣に掛けられている、巨大な黒いパネルを見てみると、先程は気が付かなかったが極薄っすらと、隣のウサギと同じウサギの絵が印刷されている事が分かってきた。

いや、薄っすらとではない。目を凝らしてみると米粒サイズの模様の一つ一つに濃淡が付けられている。気づかなかったのだ。そうと分かればかなりハッキリとウサギが見える。
しかも、隣のイラストに比べるとこちらの方はかなりリアルだ。毛は黒うさぎの艶が鮮やかに描写されており、触ればふさふさとした感触まで手に伝わってきそうだし、目には瞳の虹彩が微細に書き込まれていて、艶かしさを感じる位だ。

しかし、何か変だ。そこに描かれているのは確かにウサギ、耳が長く毛のフサフサと柔らかそうなウサギなのだけど、でもなにか違うような感じがする。何でだろう? 顔の方をよく見てみると、ウサギには有るはずのヒゲが描かれていない事が分かった。これが違和感の原因だったのだろうか?
隣りにある、小さいイラストの方を見てみた。そのイラストは、描き方こそプリミティブな線画ではあるけど、改めて見てみると大きい黒い絵の相似形になっている事が分かる。そのイラストの顔の部分を見てみる。
そちらのイラストの方には、数こそ漫画チックに数本に省略されていたが、ちゃんとヒゲは描かれていた。すると黒い大きな絵の方には何故ヒゲが無いのだろう?

しかしさらによく見てみると、極薄いコントラストではあったが、確かに細いヒゲが本物のウサギのように沢山描かれているのが見えてきた。どうも絵の表面に特殊なフィルムが貼られている様子で、見る位置によって絵の見え方が変わってくるようだ。初めはただの黒い壁面のように見えた絵も、見慣れてくるとちゃんと絵が見えるとは、これは実に面白い。小林さんが言っていたチョー面白いと言うのはこの絵の事だったのか。

他の絵も見てみようと身を巡らすと、奥の階段から一人女性が降りて来るのが見えた。そこに階段が有ったなんて気が付かなかった。ギャラリーは2階に通じているようだった。

「あら、こんにちは。いらっしゃいませ」

とその人は言った。

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「そう。カナちゃんのお知り合いの方ね? 来てくれてありがとう。 どうその絵? 何か見える?」

ギャラリーに在廊していたのは、知り合いの小林さんの従姉妹でこの絵の作者の小林さんだった。名字が一緒なのはたまたま結婚相手の名字が小林だったからで偶然との事。彼女は黒いゆったりとした、分類するとワンピースなのだろうけどなんとも言えないいかにも画家の人が好んで着そうな服を着ていて、それが刈り上げの髪型ともよく似合っていた。

「その黒いウサギの絵の事ですか?  ええ、パッと見た時には見えづらかったですが、コツを掴めば見えるようになりました。これは面白い仕組みですね。どういう原理ですか?」

僕の言葉を聞いて、小林さんは大げさに満足そうな顔をした。そして、隣に有る絵のところに歩いて行ってその絵を指差した。

「こっちに描いてある絵も、分かる? 何が描いてあるか? 見える?」

その絵の隣には、ウサギの絵と同じ様にA4サイズ位のモノクロのイラストが掛かっている。そこには毛皮の毛が顔の周り一周を縁取る厚いコートを着た、多分イヌイットの多分女の子の顔のイラストが描かれていた。そして、その隣の黒いパネルには、ウサギの絵と同じようにそのイヌイットの子供の顔が大きく描かれていた。

「ええ。解ります。イヌイットの子供の顔ですね? 隣のイラストと同じ絵が描かれていますね」

その言葉で、小林はますます満面の笑顔を浮かべた。可笑しくておかしくて仕方がない感じだ。ギャラリーをゆっくり歩く小林さんの姿を目で追って行くと、反対側の壁に掛かっているやはり小さいイラストに大きな黒いパネルという同じ構成の絵が目に入った。

「じゃあこれは? これには何が描いてあるのが見える? あ、チョット待ってね。隣のイラストを隠すから。そうしたら何が見えるか、教えて」

そう言いながら、彼女はイラストの前に立ち後ろのイラストを隠した。しかし、僕はそれより少し前にそのイラストを見てしまっている。一輪挿しに挿された一本のガーベラだ。それで僕は、今までの流れからして当然隣のパネルにも同じ絵が描かれていると思った。

しかし、今回のパネルには何も描かれていない。ただ黒一面に、よく見るとカーボン繊維のような細かく規則的な模様がわずかに光を反射して見えるだけだった。まだ目が慣れていないのだろうか? それとも、壁の光の当たり方の差が見え方の差の原因だろうか? 

僕の表情を察した小林さんは、いたずらっぽい笑みを浮かべつつ体を横に移動した。その裏に隠れていたガーベラのイラストが見える。ふと見ると、パネルにも同じ絵が描かれている事が分かった。やはり展示は他の絵と同じ構成だった。しかしなぜ小林さんはイラストを隠してみせたのだろう?

僕は言った。「花瓶に挿した花が描いてあります。ええっと、でも、その隣のイラストと黒いパネルの間にはなにか関係があるのですね?」

小林さんは素早く数回頷いた。そして、「実は、」と勿体を付けて言った。

「どのパネルにも絵は描かれていないのよ」

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僕と小林さんはギャラリーの二階に上がった。

そこは、引っ越しで何もかも片付けてしまった後の部屋の様に何も無くがらんとしていた。フロアにはただ、丸くて背もたれの無い赤い椅子が4つ、中央に、部屋の重さを支えるかのように置かれていた。壁は全部白く加工されていた。二階も展示が出来るようになっているようだったが壁に展示は無く、その代わり部屋の奥の窓際に一つPCが置かれているだけだった。

PCには比較的大きなモニターが一つ繋がれていた。モニターは窓の右横の壁に、窓の縁にピッタリと付けて置かれている。

「いい? 目で見ているものはそこに、その見たままの姿であると普通は考えるでしょう? 例えばその椅子。あなたにはその椅子が見えるでしょう? それは椅子でしょ?」

「ええ、まあ」と僕は答えた。確かに椅子だ。丸い椅子の表面はベルベットで覆われ、詰められたクッションがそれを膨らませている。あれも作品? それとも椅子として普通に座っても良いものなのだろうか?

「それはね。椅子だと思って見ているから椅子に見えるの。でも想像してみて。椅子の4つの足が、木でできた椅子の足じゃなくて、」

と、小林さんは言いながら、手を僕の前に突き出し、指を床に向けてピアノの鍵盤を叩くように動かして見せた。目を覗きこまれる。プラスティックのように主張の強い、人工的な香水の香りがした。

「自由に動く動物の足だったら、ウロチョロ動く動物だと認識されたら、どう? 椅子に見える? それとも赤い色をした小象にみえるかしら?」

小林さんは歩いて、奥の窓際に移動した。遅れて僕も付いて行く。

「安心して。それは本物の椅子よ。でも、これを見てくれる? 何が見えるか教えて」

そう言って指したのは窓の横にあるモニター。そこには極荒くチラつくドットで描かれたモノクロの映像で外の景色がリアルタイムに映し出されていた。

小林さんは話を続けた。

「柳の樹の下に幽霊が見えるっていうじゃない。あれも同じ原理だと思うの。風にそよぐ柳の葉がちょうど視覚野の定常波と同期する時、そこにイメージが見て取れるのよ。それはそれを見た人がそこに有るべきものと心が感じている映像。検証はしていないけど多分そう。

これ、外の景色が見ているでしょう? でもよく見て。例えば左から道を走る車、」

建物は大通りに面していて、窓からは道を走る車が見える。ここは都会にしては車の通りが少ない。近くに交差点が有るのだうか、時々数台の車が固まって走ってくる。
窓に見える車は、窓の視野を過ぎ窓枠の死角に入った後、引き続きモニターにその走る姿を写している。
小林さんは窓から見える一台の車を指差し、車の動きを追って腕を動かしながら説明を続けた。

「窓に見える車が左から右の方に走って来て窓枠に隠れた後、モニターにはその走ってゆく車の続きが見えるでしょう?

でも反対に、右側から走ってくる車は、窓に見え始めてからでないとこのモニターには見えない。よね?

これも下の黒いパネルと同じように、本当は何も写していないの。ただ、それぞれの運動によって視覚を刺激するドットが表示されているだけ。見ているものはあなたの視覚野が無意識に作り出した幻覚なのよ」

「いい?」と、小林さんは再び言った。

「人が自分の目で見ているもの、それはみんな夢なの。眠っている時に見る夢の映像と同じ、ただ無意識が作り上げた夢の中の映像と同じなの。ただ覚醒時は現実からの刺激でちょっとずつ修正されるから、普通は現実とそれほど乖離は起こらなくて、だからそれほど不都合は起きないだけ。でも目が覚めているときでも、例えば柳を見ればそこに幽霊を見てしまう。このモニターのように。条件が揃えば」


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「表現というのは自分の心の内を表に表す事と思われているフシが有るでしょう。でもちがう。見た相手がどう感じどう考えるか、相手に伝えたい、相手に伝える気持ち、それが表現なのよ。人がただ自分の好き勝手に制作するモノはオナニー。それは自己満足。

芸術の一体何が、人を傷つけ、人の心に爪痕を残すのか。それはその人自身なの。人は芸術に自分自身の何かを見るから傷つくのよ。自分の心のうちにある一番見たくないものを見せられるから、自分は社会に居られな人間であることを自覚され、それでいいたたまれない気持ちになるわけ。それが芸術なのよ。

だけど、そんなものを人前に見せたらどんな騒ぎが起こるのか解らない。予想ができない。それはとても恐ろしい事。だって、もしかして、馬鹿な人がこの中に、ある歴史上の真実を表す象徴を見るかも知れないでしょう? 例えばただ黙って椅子に座る女の子とか。そしてそれはその人にとってもしかすると、とても受け入れられないものかもしれない。そしてその人が、いわゆるその、ええと、偉い人だったら始末に悪いでしょう。

それが、そこには何も描いていないとしてもよ。その人が見たものが、その人自身が勝手に頭の中で想像したものだとしても。それはその人の解釈に過ぎない、はっきり言ってその人の頭の中で起こっている事に過ぎない、ただその人の、その人の心の中でだけ起こっているその人の問題なのに。

でも結局の所、コミュニケーションと言われている事のほとんどは、相手の勝手な解釈に依存しているのよ。馬鹿には何を言っても通じないのよ。頭の中で勝手に変換されちゃうから。

この絵はその事を表現している。解かる? 解かってくれるのなら、一枚あげるわあなたはカナちゃんの知り合いだし」

僕は是非欲しいと言った。それは欲しい。
小林さんは受付のカウンターの下から、A4サイズのパネル取り出し、僕に一枚手渡してくれた。表面には薄く透明なシートが貼られ、そのシート一枚分の厚さの奥に、濃い灰色の背景の中に黒く輝く、規則正しく並ぶ米粒大の円が印刷されている。

「これはあたしが今まで作った中で一番刺激が強いパターンよ。他のは映像を見るためのヒントが必要だった。逆にその制限が、展示の安全性を担保していた。でもこれは、他に何も見なくてもこれを見るだけで、そうね、そよ風に揺れる竹林をラリって見る感じよ。もしかすると音も何か聴こえてくるかも知れない」

そのパネルを見ると、今でも薄っすらと微妙に、糸が絡まった阿寒湖のマリモのようなものが見えているのが分かる。しかも、角度を変えて見るとホログラムの写真を見ているときのような奥行きと立体感を感じた。

「これは絶対人には見せないで。静かな場所で、自分一人だけで見て欲しいの。分かるよね?」

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自分のアパートに帰り、さっきからその、食卓の上に置いたパネルを見ている。

これは自分の無意識が自分の意識に見せる映像を、意識下においてそれと知りつつ見ることが出来る絵。目が覚めていながら夢を見ることの出来る絵だ。夜見る夢が自分の思う通りに見ることが出来ないのと同じように、この絵に写る映像がどのようなものになるか、見る自分自身でコントロールすることは多分出来ない。無意識は自分のものでありながら自分でコントロールすることが出来ないものなのだ。

今は何も見えない。ただ、その薄っすらと見えるおろし金のような模様を見つめている。

今日は諦めて寝ることにした。ウチには絵を飾る洒落た場所もなく、仕方がないのでパネルは冷蔵庫のドアに磁石で貼り付けた。

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朝だ。起きて気になるのはそのパネルだ。早速見てみると、今日は何と、何やら棚のようなものが写っているのが見える。

それが何なのかはすぐに分かった。冷蔵庫の中身だ。しかもご丁寧に、顔を動かすとそれに応じ、パネルがまるでガラス窓になって中を覗いているかのように映像も動く。

飲みかけのワイン、バター、昨日食べそびれた焼き鮭…つまり今の僕の心の関心事はこの、冷蔵庫のスカスカの中身と言うことか。

しかしドアを開けなくても中身が確認できると言うのは、考えようによっては便利だ。面白い。
おもむろに冷蔵庫のドアを開けてみると、実際の中身とレイアウトはパネルに写った映像とはかなり異なっていた。映像は記憶を元にしているのだろう。記憶とはいい加減なものだ。

ドアを閉め、改めてパネルを見てみると、映像は直前に見た冷蔵庫の中身に変わっていた。何の断りもなくこっそり間違いを訂正してしまうとは、自分の無意識というのはつくづく現金なものだ。そして、そういう無責任で一貫性の無い自分の内面は見たくないものだとも思った。

僕は小林さんが言っていた芸術の定義を思い出した。

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