平(タイラ)は、早朝からのアルバイトから帰ってきた。学生の時から住んでいる1DKアパートの玄関の鍵を開けて中に入る。秋の風は冷たいが西向きの部屋の空気は暑く淀んでいた。目前の、家々の屋根の向こうに沈み始めた夕日がまぶしい。
今は午後4時過ぎ。劇団の練習場の入り時間は午後6時30分頃たから、30分の移動時間を考慮しても少し眠れるはずだ。今すぐ、着ている服のまま、部屋のサイズの大半を占めるクィーンサイズのベッドにダイヴしたいと思ったがそれは出来なかった。ベッドの頭側を付けた壁に、小さい、動く虫を認めたからだ。動き、止まり、動く、軌道はジグザクに。それは見慣れた蟻の動きだった。
蟻。地面を見ればどこにでもいる。しかし平が今見ているそれは異様に大きかった。とは言えアリとしてはと言う話で、動いているから正確なサイズは分からない。頭から同体まで2cm位か。机の上には駅のスタンドから貰って来たフリーペーパーが有る。これを丸めて手で持ち、叩き潰してもいいと思った。そうしようと思った。しかし、出来なかった。その蟻の、一匹のアリの色が緑色だったからだ。緑色の蟻。平は初めて見た。これは本当に蟻か? 昆虫か? 生命か?
叩く代わりに、ホチキス止めの小冊子の紙を広げ、なるべく平らに、なるべく広くと広げた紙面には新築マンションの、コンピューターグラフィックで作成された、非現実的ないかにもの想像図が印刷されていた。その紙の上に載せた瞬間、蟻はとても大きく見えた。
大きい。いや拡大されている。目の中で、意識の中で、蟻のいるそこだけまるでクローズアップレンズで覗くかの様に大きく拡大されたその映像は、心臓の鼓動に合わせてゆっくりと拡大、縮小、拡大、縮小を繰り返している。
そして蟻の動きに従って、妙に正確に、その視角の中の拡大箇所も移動している。
平は昆虫の顔と言うものを初めてまじまじと見た。奇妙にぐるぐると回すように動く触覚は額の部分から生えている。その両脇には目が有った。複眼だ。そして顎が有る。横に並んだ牙の力強さと来たら、挟まれたら首の骨も難なく分離し、痛みを覚える前に転がり死んでしまいそうだ。
しかし、小さいはずの蟻が視野の中に、これほどまでに拡大されて見えるのは何故だ? これは人間の、いや自分の能力の範囲なのか? 平は、これは気味が悪いと感じるべき事なのではないか、と思った。
平は寝ていた。これは夢の中か? ベランダに通じる掃き出し窓を開ける。手には蟻の乗ったフリーペーパーが有る。蟻を、今冊子の上で動き回っているそれを、外に逃がそうとしているのだ。
窓を開けた。果たして、その瞬間、強い風が吹いた。西向きの窓は、緑深い谷に面している。緑の蟻は風に吹かれ谷底に落ちて行った。見える、いつまでも見える。それは落ちて行った。
平らが気が付くと自分のアパートの、ベッドの上にいた。うつ伏せで、服も着換えず。布団もかけずに眠っていた。帰ってからのあの出来事は、やはり夢だったのか?
窓際に有る小さいライティングディスクの上には、目覚まし時計と、さっき丸めたはずのフリーペーパーが貰って来たそのままの形で乗っていた。時計の針は5時を指している。
平は不安になった。この、時計が示す時間は本日のものなのか? もしかして丸一日、あるいはそれ以上の時間ここで無意識に過ごし、時間だけ巡って来て自分の寿命時計を欺いているのではないか?
しかし、ポケットから取り出したスマートフォンの画面を見ると日付が変わっていない事が分かったので、今起きたように思えた事は夢だったのだと結論した。
「おはようございます」
平の入っているアマチュア劇団の普段の練習場は、新宿区の外れの高速道路が上を走る川のすぐ近くの小さなピルの中に有る。元は個人の住宅なのだけどそれがかえって設備も快適だし、ワンフロアの大きな部屋は使いやすく、また下のフロアは新聞屋、周りは町工場なのも練習に都合が良かった。
「おはようございますヒラカツ君。新しい台本、昨日来たよ。」
先に一人来ていた安藤が声を掛ける。
平は、劇団内ではヒラカツと呼ばれている。たいらまさるをわざと読み違えた。
最近は少し付いたファン達からもその様に呼ばれて、でももともと本名の音の響きは嫌いだったから悪い気はしなかった。
「半月遅れですね。でもミミさんにしては早く書けたのかな? 安藤さんはもう読まれました?」
「うんもう読んだよ。内容? そうね。宇宙人つうか、お隣の時空の人が地球に侵略してくるんだけれどね、それが一年間限定っていうお話なの。そういうコメディ」
平はその、床に置かれたAmazonの箱を再利用して送られて来た宅急便の中から、コピー機で印刷して強力なホッチキスで留められた台本を一部取りだして見た。
表紙には "宇宙警部補ツビク・イシルム・ホビク 対 ネアンデルタール人" と、印刷されていた。
「子供が見るTV番組が有るでしょう? 何とかジャーとか何とかダーってのが宇宙人とかと戦うやつ。あれが実は本物のドキュメンタリー番組だった、という話でさ。
でさ、会話の中で、人類に対してっつうかヒラカツ君に対して行われる悪の組織への勧誘だとか、組織の活動資金であるところの玩具の売り上げの話とか、そういうのが真面目に語られる訳。
1年間のタイムリミットで、人類を征服できるかどうか!」
平は台本をめくり、初めの方を少し読んだ。まず出てくるのは蟻で、それは実は隣の時空から来たネアンデルタール人の放つ斥候だった。見た目はありふれたただの虫だから上手く人に近づいて、不思議な力で人を支配しながら前哨戦を果たすはずだった。
でも、地球の蟻とは明らかに色が違ったのですぐにばれてぶっ叩かれてしまうのだった。
平は台本から顔を上げ、安藤に尋ねた。
「ねえ、安藤さん。安藤さんは緑色の蟻って見た事あります?」
「有るよ。つうか昨日ウチで見た。浅田飴みたいな色のやつでしょ? 掃除機で吸っちゃった」
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