2016/03/01

Sonatas and Interludes



 目の前にある窓の半開きになったブラインド越しに差し込む夕日がまぶしくモニターから目をそらしコーヒーが注いであるマグカップの冷めた液体の表面に有る膜が揺れるのを見たその時を見計らってかどうかは知らないけど、斜め向かいの席にいる吉田さんがこちらに向かって話を始めた。
僕が最近婚約した女性は名前からするときっと彼女が大学のサークルで一時期一緒だった人で面識が有るとの事。
彼女は僕を自宅に招待してくれた。何故僕を誘ってくれるのかと尋ねたら二人で来なさいと言われた。

 そういう訳で今、僕と僕の婚約者佐竹さんは、吉田さんの家が有る住宅地の最寄り駅にいる。1月の終わりの日差しは電車を降りたばかりの目の奥に刺すようにまぶしくでも露出した頬からは空気の冷たさを感じ春は遠まだ遠いと思った。僕らが下り立った場所はホームの屋根の切れた端の所で、先日降った雪が固まって奥に寄せられているその向こうは壁に長いほうきがぶら下げられた公衆トイレの屋根は鉄製のようで赤いペンキが塗られていた。

 吉田さんに駅に着いた旨電話をすると彼女はすぐに車で迎えに来てくれると言う。バスターミナルと共有になっている車寄せには他に1台も車は無く、しばらくしてやってきた赤い日産マーチがそれだとすぐに分かった。僕たちは車の前で簡単な自己紹介をした。やはり二人は知り合いだった。

皆が車に乗ると人の重さでサスが沈む。吉田さんは一瞬、そこで他にも誰かを待つようなそぶりを見せた。無意識にご主人を探したとの事。たまに駅に迎えに来ていた時の癖だと言う。(吉田さんのご主人は今海外出張中で、数か月家にいない)

 実は家は駅からそれほど遠くは無いのだけど、この辺りは路地の感じが皆よく似ていて、一旦違う道に入ってしまうとそのまま別の区画に入っても気づかずに歩き続け、道がくねくねと曲がるお蔭で方向感覚も失い、戻ろうとすると今度は無意識に通り過ぎて来た合流地点が逆向きに歩くからこちら方向からは二股に分かれている為、また間違った方の道に入ってしまいますます迷う「ように出来ている」、という話を聞かされた。
車はエンジンを唸らせてのぼる坂の舗装はアスファルトでは無くコンクリートでされていて、表面にビール瓶の底でスタンプしたような丸い滑り止めの模様が点けられている。雪は全て脇に片付けられて、黒く汚れていた。

 吉田さんの住む家は坂道の途中の道に面した所に有り、すぐに着いた。彼女は車を道に止めて僕たちをその玄関前に下ろし、斜向かいに有る広い共有の駐車場に車を止めに行った。この辺りの住宅街の規定で家にガレージを作ることは推奨されていなくて、代わりに共有駐車場を安い管理費だけで使える事になっていると聞いた。
玄関の回りの柵にはご主人の趣味だというバラの蔓が長くからませてありとげの有る枝を辿ってゆくと随分先に株の根本に達するそこは歩道から庭の地面がちょうど僕の顔の高さで、有機肥料で正しく肥えた土のにおいがした。
吉田さんは、バラの手入れの時期にはご主人が帰って来て欲しいと言った。

 家は大きくは無いけれどとても贅沢な作りで、玄関は庭に面して大きなガラス戸の有る広大なリビングに繋がり部屋の半分とも思える大きな空間は中央に調理場と流し台をしつらえたキッチンになっている。明るい色の人工大理石の流しの表面は曇り一つなくピカピカだ。彼女は普段このキッチンで一人立ったまま食事をしていると言った。僕はそのキッチンの手作りというシンクのくぼんだ表面に写る、長い電線で梁からぶら下げられた深い傘が付いた照明を見ながらその話を聞いていた。平らな面に反射して見えるそのライトの内側にある明かりのついていないLED電球を見ながら。

 部屋の反対側の奥にはカバーの掛けられた短いグランドピアノが、そしてその隣に幅の広いマリンバが置いてあった。窓から入る西日が後ろの壁に、楽器と人の長い影を写している。人の影は佐竹さんの物だった。彼女はマレットを両手に2本づつ取り、弾いてみていい? と尋ねた。

まだ弾いているの? 
今は全然。あなたは? 
ピアノを少し。マリンバは夫の趣味なの。 
ご一緒にセッションするのね?

 佐竹さんは極小さい音で、和音をリズム良く繰り返し弾いた。ずっと同じ和音を。ライヒの曲の冒頭部分だ。吉田さんはピアノのカバーを、端っこの方を持って全部めくって外しそれを当然のように僕に渡した。僕はそのカバーを腕を伸ばし苦労してたたみ、近くのソファーの上に掛けながらピアノを見ると蓋の上にはスコアが数冊載せてあるのが見えた。ドビュッシーが幾つか。

佐竹さんはマリンバを弾く手を止めた。
僕は吉田さんの少し開けるポジションという指示に従ってピアノのふたを開けるのを手伝った。

いつの間にか僕の横に佐竹さんはいて吉田さんがピアノを弾き始めるのを見ていた。軽く、本当に軽く彼女の体が小刻みに揺れて何かリズムを刻んでいる。
グラドゥス・アド・パルナッスム博士を吉田さんは弾いた。若干たどたどしくも指は回っているけど左手の音が少し弱い。

へえ吉田さん。ピアノを弾くんだ全然知らなかった教えてくれなかったし。凄い上手いしピアノも凄く良い音ですね。この部屋に良く合っていて品が有って。
いや僕は全然、本当に全然弾けません。それに佐竹さんが楽器を弾く事も全然知らなかったです。今日初めて知りました。
あたしと彼女は昔音楽のサークルで一緒だったのよ。

 佐竹さんはいつの間にかまたマリンバの所に戻っていた。手にはマレットを持って窓から入る光は顔を照らす今にも沈みそうな太陽の光。
吉田さんは譜面台に月の光のスコアを置いた。僕の譜めくりしますかと言う問いに吉田さんはお願いと答えた。部屋が急に暗くなってきた。

 いきなり、ピアノを弾き始めたのと同時にマリンバの打撃音が聴こえた。佐竹さんはピアノの左手部分をなぞるように弾いていて僕の耳にはピアノを上手にフォローしたアンサンブルに聴こえる。見事だ。実に見事だ。

ふと見ると、譜面台の回りが少し明るく、揺らめく光に照らされている。
ピアノの脇に蝋燭が灯されているのだろうか?
でもさっきはそんなものが有っただろうか?
そもそも誰が火を灯した?

ピアノのダンパーの所から火が出ている。ダンパーが上下するたびに激しい火の粉を散らしている。その火は前へ後ろへ飛び散り、火の粉が落ちた所は発火して激しい光を放ち始めた。
これは幻だ。僕が見ている幻だ。熱くは無いし音も臭いもしない。第一僕以外の誰も気が付かない。僕は一人幻を見ているのだ。

僕は曲の進行に合わせて譜面をめくった。譜面が、裏側から高温にされされて耐え切れず複数の丸い穴をあけ広げて行くように燃えて行く。燃えて穴が開いた向こうは暗く光が無く、虚無が広がっている。
ふと目を上げると、一心にマリンバを弾いている佐竹さんが見えたのだけどその様子は眼で見る風景では無くまるで紙に描いた絵をパラパラとめくっているようでしかもその紙には火が付いている。
そう。僕の視界全体が一枚の紙のようで、それが高温にされされ大事な部分がどんどん燃えて無くなってゆく。
音が、アンサンブルだけが聴こえる。

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