僕は半年ほど前から自宅アパート近くの教会に通っている。
名前も聞いたことの無い宗派で、小さな礼拝所が職場に通う道の途中に有り、看板を読んでいたらそこの人に誘われて、そのまま、日曜日ごとに話を聞きに通うようになったのだ。
所が有る日、今度の日曜日はこの礼拝所では礼拝は行われないので、代わりにもう少し先に有る、大きい、いわゆるメジャーな宗派の教会に行って欲しいと言われた。
それでそちらの教会に行ってきたのは昨日の事。
話は通っていたようで、入り口を入った僕は、まるで仲間の様に暖かく歓迎された。
また、歌われた讃美歌のその合唱の素晴らしさには本当に感動させられた。
でもその日、僕が通う教会のメンバーでその大きい教会の礼拝に参加したのは僕一人だった。
他の人はどうしたんだろう?
何か、強い胸騒ぎがして目が覚めた。
昨日参加した礼拝の事が頭から離れない。僕があそこに行ったのは果たして良い事だったのか? 行けと言われて行ったのだから、それは勧めに従った正しい行動なのだろう。でも、同じ説明を聴いていたはずの他の皆さんは、一体どうしてあそこに来なかったのだろうか?
僕は最近、礼拝で話される事を信じ始めていた。これは本当の事なのではないか、世界の成り立ちと言うのは、神様がいてキリストがいて悪魔がいて・・・ それが今、それを知る自分自身を外から眺めている自分がまたいるような、あるいは心の中で棒磁石のS極あるいはN極同士をくっ付けようとして無理やり努力しているような、そんな感じがしている。
ベッドサイドの時計を見ると、朝の5時だった。空はまだ暗い。いつもよりずいぶん早い。しかし、目も覚めてしまったのでこのまま起きて仕事に行く事にした。
パンをトーストしようとしてオーブンのドアを開けると、そこにはすでにこんがり焼け上った食パンが二枚入っていた。昨日トーストしてそのまま入れっぱなしにしていた事を思い出す。
そうだ、昨日からどうも気分が変で、朝食は摂らなかったんだ。
パンを手に取ると冷たい。皿に取ると妙に湿っぽくて固い。バーターを塗ろうとするとバターは白い塊のままで上手くパンに塗られず、うんざりさせられる。
結局、それを今食べるのは止めて、パンを乗せた皿はそのまま冷蔵庫に入れてアパートを出た。
礼拝所は住宅街の通りに面したところに有る。(その通りは僕が駅に向かう時に通る道だ)
表に看板が出ている他は、その道に面している他の、いわゆる一戸建て住宅と外観は変わらない。
今朝も、その道を通り、何気なく礼拝所になっている家を見て驚いた。壁一面にへたくそなストリートアートが描かれていた。太いアルファベットの回りにさらに太い縁取りがしてある。字のように見えるそれは、しかし何が書いてあるのかさっぱり読み取れない。可愛げもなくただただ汚い。
自転車にまたがったまま呆然と壁をその眺めていると、この礼拝所に住んでいる磯部さんが、ちょうどゴミを出しに出てきた。目が合うと彼はしげしげと僕の顔を見た。そこから何かを読み取ろうとしている様子だった。
もしかすると、何か大変な問題が起きているのかもしれない。僕は壁の落書きについてはとりあえず触れずにいようと思った。
彼は手にしたゴミ袋を玄関に置き、歩いて近づいて来た。僕の顔をじっと見て目を離さない。
「おはようございます。川村さん。早いですね。仕事ですか?」
僕は返事をした。
「 ええ、でもフレックスなので、別に何時に行ってもいいんですけどね」
彼はとても話したそうに見える。僕は迷った。今ここで時間をとり、彼と話をするべきか、それともすぐに立ち去るべきか。
「でも、朝は電車が混むので、今の時間に家を出てしまうんです。今を逃すと電車は凄く混むんですよ」
ふと庭先を見ると、そこの地面に赤い苔のようなものが生えて地面を覆っている事に気付いた。
面積はちょうど玄関に有る足元のマットくらいで、ビロードの様に朝日を反射している。よく見ると風にそよいでさざ波が立つように揺れている。
こんな物が前からここに生えていただろうか?
というより、さっきは生えていただろうか?
「ああ、あれですか」
と、磯部さんは言った。視線は僕と同じ方を向いている。
「数日前から出始めたんです。今の時間とか、夕方とか。
場所は毎回違うんです。
出て来てそして十分位で消えるんです。
何でしょうねこれは」
彼は片足で、その赤い苔のようなものを踏みつけた。苔には彼の靴の跡がくっきり残った。その足跡の底でもなお、倒れた毛のようなものが風にゆれるように動いている。ただ今は葉を揺らすほどの風も吹いてはいない。これは自分で、周りの何かと同期して動いているように見えた。
「落書き、見たでしょう。
これは多分、あっちの教会のメンバーが描いたんですよ。
彼らはずっとうちらに嫌がらせをしてきました。
この辺りの住宅街に根も葉もないうわさを立てたり、市役所経由で苦情を言ってきたリ。
うちら、歌は歌わないでしょう?
前は歌っていたんですよ。でも苦情が来て歌えなくなったんです」
磯部さんはそこで言葉を止めた。足元に目をやると、先ほど赤かった苔の色がどんどん薄くなってゆくのが見えた。見ているとやがてそれは姿を消し、元の、雑草が点在する芝生の地面が見えるだけになった。本当に何事も無かったかのように。
「川村さん。ワタシね。引っ越します。どうも今まで。さようなら」
彼は、消えて行く赤い苔を見ながら、とぎれとぎれに言った。
僕にその礼拝所の管理人にならないかとの誘いがかかったのは、それから二日後の事だ。
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